サンデー・パンチ

粂川 麻里生

タイソンよ、日本に来い

  多くのボクシングファンが、マイク・タイソンのことを心配しているはずだ。もうじき、ボクシングはできなくなるだろう。そうしたら、どうなってしまうのか。この、その絶頂期にはおそらく史上最強だっただろう世界ヘビー級チャンピオンは、世界のスポーツ史上でも最多の金額を稼ぎ出したが、今や自己破産した身である。西海岸の豪邸や、頻繁に買い替える10台以上の高級車の値段は、その浪費のごく一部にしかならない。むしろ、深刻な出費となっているのはたとえば電話代で、未払いの電話料が、人間ひとりでは24時間国際電話をかけ続けてもまだあまるほどの額だという。つまり、取り巻きが、それも無数の取り巻きが、電話代やら、車やら、旅行やら、ありとあらゆるものをたかりまくっていったのである。
 20歳そこそこのタイソンがスターダムにのし上がって以来、彼の周りにはカネとステータスをむしゃぶり吸おうという「友人」や「親戚」、「恋人」が集まってきた。タイソンは、そういう連中のいうことを聞いてやるために、口うるさいカス・ダマト門下の兄弟子たちと次々と絶縁していった。しかし、最初の妻、ロビン・ギブンスとその母親、そして「親類」たちに典型的に見られたように、タイソンを「愛して」くれる人々の多くは、まるで「勝利」と「サクセス」を至上の価値とするアメリカ社会の陰画のような人々だった。角砂糖に群がるアリのように、タイソンに絡み付いては小遣いや慰謝料をむしりとっていった。
 もちろんタイソン自身にも問題はあった。喧嘩、婦女暴行、交通事故、薬物乱用……。愚行を繰り返すタイソンには、次から次へと裁判が襲いかかった。レイプ裁判(その中には「強姦とは認められない」とされたものも少なくなかったが)だけでも、何件あっただろう。去っていった妻たちも、タイソンがこれほどのトラブル性を帯びていなければ、もう少しは優しくしてくれたかもしれない。
 ホリフィールドの耳を食いちぎってプロボクサー・ライセンスをサスペンドされたタイソンを復帰させるために、心理学者の精神分析を受けたこともあった。案の定、診断は「人格障害」。精神病というわけではないが、人格形成の過程で大きな問題を抱え込んでおり、社会生活を送る上で深刻な問題が生じることがある、というのだ。死ぬか、ギャングになるかしかなかったブルックリンのスラムでの幼少年期。大切にしていたハトを皆殺しにされたことや、「絞首刑リンチ」で九死に一生を得た経験はエピソードのひとつに過ぎない。そんな数々の陰惨な経験は、幼いタイソンの心にのちのち重大な「障害」となるような傷を植えつけたのかもしれない。
 これから、タイソンはどうなってしまうのだろう? 日本のB級格闘技のリングにあがることで、離婚の慰謝料くらいは払えるかもしれない。しかし、本物のボクシングをやる自信は失ってしまったようだ。もともと、タイソンはボクシングに関しては小心なまでに慎重な男だ。どんなにすさんだ生活を送っているときでも、その時に可能なグッド・コンディションでリングに上がってきた。タイソンには拙戦もあるが、敗れた試合ではいずれも相手が本当に高いレベルの力を発揮していた。日本のドサ周りで大金が稼げるとなったら、もうプロボクシングには戻れないのではないか。
 かつての「鉄人」が哀しい姿をさらすのを見たくないボクシングファンは、「K−1参戦」を目的としたタイソンの来日を心配している。その気持ちは、僕も分かる。なにしろ、一度は強烈にリング上で輝いた、あのアイアン・マイクである。打撃格闘技でボブ・サップになにかされるとは思えないが、ミルコ・クロコップが相手なら、ローキックか何かTYSON.AFTERWARD.CF.03082.JPG - 13,406BYTESで試合放棄するか、逃げ出す(トレバー・バービック!)ようなところまで追い込まれるシーンは想像できる。いや、たとえ勝ち続けるとしても、皮膚のたるんだ体から繰り出す遅いパンチでキックボクサーをぶちのめすタイソンを見ても、嬉しいはずはない。
 しかし、僕はそれでも、「タイソンよ、日本に(もう一度)来てみないか」と言ってみたい気がするのだ。日本は、アメリカほどスポーツや教育のレベルが高くない代わり、敗者にも優しい空気がまだ残っている。人種差別だって、さほどのものではない。なにより、東洋の格闘技には、まだ精神性が残っている(はずだ)。濃厚にプロレス化しているK−1に多くは期待できないが、それでも、その土台となっている空手等には、まだ「道」の精神が生きているはずだ。「押忍」の心である。僕たちがタイソンにひきつけられる理由は、その爆発的強打だけではない。あのバッド・ボーイ・タイソンの胸の奥にきっと脈打っている、ピュアこの上ない格闘家魂が、彼をしてボクサーの中のボクサーたらしてめているのではないか。その純粋な格等家精神が、東洋の精神に深く触れて初めて、本当のありようを見出すような気がしてならない。
 タイソン自身が東洋的な思想に触れるメリットも大きいのではないだろうか。かつてタイソンを救ったカス・ダマトは、禅を研究することでその精神を深めていったのだとも聞く。その意味では、タイソンを待っている日本の禅寺もあるのではないか。自力で心を安定させることが彼の危急の課題だとすれば、それはサイコセラピーよりも、伝統的な方法によるほうが可能性があるように思う。
 日本は、タイソンにとっていづらい場所ではないはずだ。アマチュア時代や、プロデビュー間もない頃、試合前のタイソンは「負けたら、みんな僕の回りからいなくなっちゃう」と泣いていた。今、アメリカでは本当にそうなりつつある。しかし、日本ではそうはならないだろう。我々の社会は、背中を丸めながらでも生きていける社会である。たかがスポーツの敗北でやけになることはない。まして、タイソンは、すでに偉大な王者なのだ。それに、タイソンにはなかなか愛嬌もある。ボブ・サップの技としての「野獣性」に飽きた日本人には、そのキャラクター自体も愛されるのではないか。もちろん、日本では「人格障害」でも生きやすい、などと馬鹿なことを言うつもりはない。ただ、アメリカの「弱肉強食」、「白黒決着」、「勧善懲悪」、「なんでも裁判」の社会よりはましなのではないか。
 幸か不幸か、タイソンの来日は麻薬問題等もあって暗礁に乗り上げた状態だ。しかし、僕は、タイソンと日本の相性はいいと思う。あんな顔をしたやんちゃ高校生は田舎に一杯いるし、東京ドームで「神話崩壊」したのも何かの縁に思えてならない

 


 粂川麻里生(くめかわまりお)
1962年栃木県生。1988年より『ワールドボクシング』ライター。大学でドイツ語、ドイツ文学・思想史などを教えてもいる。(写真はE.モラレスと筆者)

 

  コラム一覧 バックナンバー



(C) Copyright2003 ワールドボクシング編集部. All rights reserved.