夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』

 三谷大和さん

  三迫ジムで惜しくも世界タイトルを逸したのが、東京オリンピックバンタム級金メダリストの桜井孝雄さんであるが、時代を経て桜井さん同様、アマから三迫ジムに入り、やはり王座に手が届かなかったのが、三谷大和さんである。桜井さんのようにオリンピック代表にはなれなかったが、高校(岡山・山陽)時代から素質を高く評価されていた。
 1988年のインタハイ・フェザー級優勝を手土産に特別推薦枠で早大に進学。これは一定の学力を満たさなければふるい落とされる制度であるから、三谷さんは文武両道に優れていたわけだ。早大は関東大学リーグ戦の2部だったが、三谷さんは個人的に力量を発揮して、在学中に3度アマの全日本選手権で優勝(フェザーとライト級)している。
 文句なしの大物である。プロのジムが獲得に動かないわけがない。桜井獲りで実績のある三迫仁志会長が、バックにいるフジテレビの看板ボクサーにするべくいち早く動いて、契約に成功する。1千万円と言われた契約金は、ボクシングの世界では破格だった。
 この三迫ジム入りには、京浜川崎ジムの吉川昭治会長(当時)からクレームが付いていた。「プロでやるなら、うちのジムと契約するべき」というもの。三谷さんは在学中、京浜川崎ジムの施設に下宿するなど、吉川会長との繋がりは緩くなかった。
 人情と契約は別物と割り切った三迫会長は、クレームを無視して三谷さんをデビューさせた。これに対して吉川氏は三谷さん、三迫会長、フジテレビの3者を相手取り、損害賠償の民事訴訟を起こした。
 こんないざこざがあっては、ボクシングに集中できなかったのではないかと思うが、三谷さんは9戦目で世界挑戦にこぎつけのだから、結構厚かましい?性格なのかもしれない。
 相手はWBAスーパー・フェザー級チャンピオンの崔龍洙(韓国)。この時の三谷さんの戦績は7勝1敗。実は唯一の黒星は当の崔が世界を獲る前に、ノンタイトル戦で対戦して喫したものだった。
 この1戦には三谷さんの母校も肩入れしてくれて、会場も早大記念会堂だった。試合は一歩及ばずというやつだった。最後の2ラウンドに追い上げた印象はよかったが、ジャッジ3氏はそろって115−114で崔。実は9ラウンド、三谷さんはバッティングで1ポイント減点されている。それがなかったら引き分け。どの道、戴冠はなかったのではあった。
 三谷さんはボクシング版“巨人の星”で、幼少のころから空手家の父・辰彦さんに厳しくボクシングを仕込まれた。その辰彦さんは試合後「武士道の精神に欠けていた」と、一線を越えることができなかった息子の精神力に、幻滅のニュアンスを隠さなかった。
 以後、三谷さんの前に辰彦さんが姿を現すことがなくなったという話を、ものすごく寂しく聞いた。世界を夢見て砕けた父子鷹。より深く傷ついたのは父だったかも。
 9カ月後のリマッチ。辰彦さんを呼び戻すためにも、三谷さんに勝って欲しいと念じたが、またも小差の判定負け。物悲しさが今も残る。

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