夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』

 ロイヤル小林氏

 豪放な性格の未完の大器

 関光徳さんが会長の横浜光ジムで、トレーナーとして頑張っている元WBCスーパー・バンタム級チャンピオンのロイヤル小林さんは、現役時代に“KO仕掛け人”の異名を取ったハードパンチャーであるが、豪放な性格がかえって災いし、天与の才能をボクシングの敵である酒とタバコで摩滅させ、世界を極めながら45日天下に終わったのがなんとも惜しまれる。
 アマ(自衛隊体育学校)時代から、強打者の聞こえが高かった小林は、72年ミュンヘン五輪のフェザー級代表になって、一段と声望を高めた。オリンピック代表を土産にプロ入りするにあたって、少々自慢になるが、特種でデイリースポーツの一面を張らせてもらった。
 いくらアマの大物といえど、プロ入りがスポーツ紙の一面で扱われるケースは、64年東京五輪バンタム級金メダリストの桜井孝雄(三迫=現ワンツースポーツジム会長)らほんの一握りのボクサーに限られている。
 争奪戦に勝って小林の獲得に成功した国際ジムの高橋美徳会長は、当初“オリンピック小林”のリングネームを考えた。しかし商品や称号に、無断でオリンピックの名前を使うことはできないことが分り、ロイヤルにしたいきさつがある。当時、高橋会長のスポンサーに、ローヤルゼリーのヒット商品で億万長者になった人がいた。それにちなんで付けたのがロイヤルである。
 プロデビューした小林が、ファンの期待に応えて、バッタバッタと対戦相手をなぎ倒すのを見て、特種記者はだれにも増して痛快だった。当時は元東洋ウェルター級チャンピオンのムサシ中野(笹崎)が過去に築いた12が国内の最多連続KOだった。
 それにあと1つと迫る11連続KOを遂げた時は、最多記録への期待が大いに高まった。しかしバート・ナバラタン(フィリピン)という曲者に記録を阻まれる。「この野郎」と本人も思っただろうし私も同感だった。昔はフィリピン・ボクサーの強さに腹が立ち、今は弱さに腹を立てている。
 連続KOの記録こそ樹立できなかったが、小林の強さは万人が認めるところだった。だから4度も世界挑戦ができたのだ。最初に挑んだのはアレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)。5ラウンドに倒された。
 2度目に挑んだリゴベルト・リアスコ(パナマ)からベルト奪取に成功。これは前にも書いたように45日天下に終る。3度目にチャレンジしたウイルフレド・ゴメス(プエルトリコ)には3ラウンドKOを喫す。アルゲリョにしろゴメスにしろ、語り継がれるスーパースターである。その相手にしてもらえただけでも、小林は果報者だと思う。
 いずれの世界挑戦の前であったか。千葉県野田市でキャンプを張った時のこと。記者団の取材が終ると、高橋会長が所要で東京に戻った。これ幸いと小林は、われわれを近所の飲み屋に連れ出したのだ。ビールばかりか、タバコまでふかしている。
 年長の私は「現役でいる限り、2つともやめた方がいいよ」と諌めながら、誘惑に負けてジョッキをあおっていた。好漢小林が、俗人に堕しないで、ボクサーの戒律を守っていたら…。欲を言えばキリがないことは分っていても、ついこぼしたくなる。

 

  コラム一覧 バックナンバー



(C) Copyright2003 ワールドボクシング編集部. All rights reserved.