夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 渡嘉敷勝男さん

 具志堅二世のスピード出世


  文字通り具志堅用高の跡(世界王座)を引き継いで、協栄ジムで4人目の世界チャンプになったのが渡嘉敷勝男(現渡嘉敷ジム会長)である。具志堅が1981年3月にWBAのジュニア・フライ級タイトルを失った9カ月後、ベルトを日本、それも協栄ジムに取り戻したのだった。デビュー以来16戦目のスピード戴冠である。
 速さを競えば、井岡弘樹(グリーンツダ)と辰吉丈一郎(大阪帝拳)の8戦目や具志堅の9戦目にに遠く及ばず、倍あるいはそれ近くの戦歴を要しているが、これは3選手が常識破りの天才だったからできたことで、渡辺二郎(大阪帝拳)と並ぶ16戦目の世界制覇は、異例のスピードにランクされる。
 渡嘉敷を世界に向けて早仕立てしたのは、金平正紀会長の苦肉の策でもあった。具志堅が王座を失った後、金平さんは具志堅自身の返り咲きを強く望んだ。単純な年齢判断からすれば25歳とまだ若く、現役を続けられそうに思ったのだ。しかし肉体の衰えを体感していた具志堅は、頑として現役続行を拒んだ。
 そこで金平さんはまだ醸成途上にあった渡嘉敷を、冒険覚悟で“蔵出し”することにしたのである。渡嘉敷はスターへの登竜門である全日本新人王にはなっているが、日本タイトルにはチャレンジする前の段階だった。金平さんの強運がここでも生きたのか、渡嘉敷が非凡な強さを潜在させていたのか、短期間に具志堅−フローレス−金煥珍(韓国)と移動したベルトは、1年足らずで協栄ジムに還流して来たのである。
TOKASHIKI.JPG - 16,868BYTES 異例の速さではあるが、渡嘉敷の世界タイトル奪取がフロックでなかったことは、このタイトルを5度守ったことで証明されている。面白いのは世界タイトルマッチでルぺ・マデラ(メキシコ)と4度も対戦していることだ。同一カードが3度繰り返されるラバーマッチというのは聞き覚えがあるが、4度と
いうのは記憶にない。
 渡嘉敷が世界チャンピオンになったのと時期を同じくして、金平さんが着手したとされる“オレンジ事件”が週刊誌によって暴かれた。渡嘉敷は金平さんの潔白を訴える記者会見を開くなど、矢面に出ることを厭わなかった。そのためやや暗いイメージを残したことは否めない。
 実際の渡嘉敷氏は明るく社交的だ。引退後のタレント活動でそれは一目瞭然。“トカちゃん”の愛称で親しまれていたものだ。しかし数年前にジムを開いてからは、スタンスをほとんどボクシングにかけて、やり手ぶりを発揮している。
 一例を挙げれば阪神淡路大震災のチャリティーボクシングがある。元世界チャンピオンを中心にしたスパーリング大会をプロモーターとして成功させ、神戸市に1千万円以上の寄付]をしたもの。山口慎吾の世界挑戦は実らなかったが、これからのボクシング界で大暴れしそうなムードを漂わせるトカちゃんだ。

 

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