夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 斎藤寛 国分寺サイトージム会長

 一見お人よしでその実頑固
 「興行回数日本一」のプロモーター


 小熊正二氏(元世界フライ級チャンピオン=現小熊ジム会長)が、新日本グルーSAITO HIROSHI.JPG - 5,832BYTESプの総帥・木村七郎会長の子飼いとして、厚い信頼関係にあるのに対して、造反分子の筆頭格は国分寺サイトージムの斎藤寛会長である。
 斎藤会長はかつて木村会長の傘下にあって、ジムを新日本サイトージムと称していた。それが5年前に、あることで斎藤会長が我を張って譲らず、遂に木村会長と義絶するはめになり、新日本グループから脱退した上、地名を取って国分寺サイトージムと改称、今に至っているのだ。
 原因は斎藤氏が、木村会長の反対を押し切って、日本プロボクシング協会(当時は全日本ボクシング協会)の会長選挙に打って出たことにある。元来、会長職は協会の長老たちの根回しにより、選挙をしないで無風で選ばれる慣習になっていた。
 それが崩れたのが、斎藤氏が立候補した会長選から遡ること3年、95年の改選期だった。木村氏ら長老は、2期6年を務め上げた原田政彦会長の3選を根回ししていた。これに対して笹崎ジムで原田氏の先輩にあたる金子ジムの金子繁治会長が、協栄ジム・金平正紀会長(故人)のバックアップを受けて立候補を表明したのである。
 会長職の無風選出の慣習は中断され、15年ぶりの選挙が元同門同士の骨肉の争いで実施された。ワールド・ボクシングのリングサイドニュースを紐解くと、原田氏64票、金子氏31票、その他3票で原田氏が圧勝している。「選挙をすれば必ずしこりが残る」と木村氏らが憂慮していたように、兄弟弟子のその後は必ずしもしっくりいっていないようだ。
 それもあって98年の改選期に、協会の事業部長でもあった斎藤会長が立候補宣言をするや、原田氏の4選を支持する勢力の1人である木村氏は、斎藤氏に今回は見送るよう説得を試みた。一見、人がよさそうに見えて、その実頑固な斎藤氏は、聞く耳を持たなかった。
 新日本グループと分れてまで、ビッグネームの原田氏に挑む斎藤氏に、私はドン・キホーテのイメージをダブらせていた。10票取れるか取れないかというラインを予想しながら…。大外れだった。原田氏の67票に対して、斎藤氏は34票を集めたのである。
 「同じ人があまり長く会長に留まるのはよくない」というのが、斎藤氏が立候補に際して掲げた理由であるが、ちょっときれい事に過ぎる。業界のトップに立ってみたいという野心はあったと思う。思ってもアタックできないのが、普通の人間であるが、猪突猛進を恐れないのが斎藤氏だ。
 この人が日本一を自負していたことがある。「私は興行回数で日本一のプロモーターだ」というのである。「クラッシュ・パンチ」というシリーズ興行を手がけており、今年6月に142弾を挙行している。就職情報誌発行の大手、学生援護会をバック付けているお陰で、ノーテレビでもこれだけ長く続けられたのだと思う。 前回、01年の会長改選期には動きを示さなかった斎藤会長。もうあきらめたのか、それとも来年2月に迎える改選に、再び打って出るつもりなのか。いずれにしても、何をやるか分らないお人ではある。

 

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