夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


木村七郎・新日本木村ジム会長

6人の移籍組をチャンピオンに育てた”リサイクルオー”


 埼玉池田ジムの池田伸夫会長が、兄貴分の山縣孝行さん(TY十番ジム会長)より目上に置いていた人がいる。新日本木村ジムの木村七郎会長である。同じジム会長同士でありながら、池田さんは「木村先生」と呼んでいた。実際の師弟関係はなかったが、木村会長のボクシング理論、哲学などに傾倒していようだ。
 木村会長が残した選手育成上の実績に、他のジムが手放したボクサーを拾って、日本チャンピオンに再生したケースが、何度もある。同ジム初代王者の山上哲也(日本バンタム級)は新和ジムから連れてきて育てたもの。同様に、岡田晃一(東洋J・フェザー級)、沼田久美(日本バンタム級)、引地博(日本J・ミドル級)、友成光(日本ライト級)、そして現役の小熊坂諭(日本ミニマム級)といった選手はいずれも”木村再生工場”で、初めてタイトルを手にした選手たちである。
 手垢のついたボクサーの欠点を矯正して、日本チャンピオンに育て上げるのは、一から指導するより難しい側面もあるはずだ。それを克服して再生日本チャンピオンを6人もつくったのだから、木村会長には独特の手腕があると思える。ボクシング協会と記者クラブの親善ゴルフコンペでは、各自リングネームを持つことになっている。私は木村会長に“リサイクルオー”という名前を献じた。
 ボクサーのリサイクルには根気がいると思う。木村会長ならではの粘り強さを実証したのが、大熊正二をフライ級世界チャンピオンに返り咲かせた過程だ。大熊は本名の小熊を名乗って、世界タイトル初挑戦で、WBC王座をものにした。
 初防衛戦でタイトルを失ってからが、大変な道のりだった。WBAとWBCを問わず、世界の王座に挑んでは失敗を繰り返すこと実に4度。普通なら会長さんの方で見切りをつけて、世界挑戦から手を引いているところだろう。ところが木村会長は、大熊が落城した後、5度目の挑戦で王座に返り咲きさせたのだから恐れ入る。この間に要した年月が5年と4カ月である。
 木村会長は同業者からの人望が篤く、1984年には今の日本プロボクシング協会(当時全日本ボクシング協会)の会長に推され、在任中にJBC(日本ボクシング・コミッション)と協調して、全ボクサーにCTスキャン(頭部断層撮影)の受診を義務付けた。
 リング禍を未然に防ぐために、極めて有用な制度であるが、そうと分っていても簡単には踏み切れなかった。受診には費用がかかるだけに、業界内に反対する勢力もあったからだ。木村会長は事を急がず、根気よく業界内を調整して実現にこぎつけたのだった。
 私が書いた記事であるジムの会長とトラブルになり、後楽園ホールの入り口付近で中傷ビラを撒かれたことがある。木村会長の立会で、会社のお偉方の前で対決することになった。
 相手は「芦沢は新聞記者にあるまじき男」の具体例を明確にすることができず、木村会長は「謝罪文を書け」と裁定。木村会長はその会長を連れ出し、会社近くの代書屋で作成した“公式”の謝罪文をお偉いさんに出してくれた。このように、まあまあで終らせず、けじめを大切にする人である。(写真:木村会長と日本ミニマム級王者小熊坂)

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