夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 池田伸夫氏の巻


 このほど元日本フライ級チャンピオン、ピューマ渡久地こと渡久地隆人氏が、東京の一等地に自前のボクシングジムを開設した。渡久地氏の育ての親である、今は亡き池田伸夫氏(埼玉池田ジム会長)の想い出話から、酔いどれ交際録の輪を広げていきたい。
 背中に入れ墨のある池田さんは、渡久地が興南高で活躍しているころ、那覇市で大道占いをしていたという。ボクサー経験のある池田さんは、渡久地の素質に惚れ込み、プロでの成功を夢見てスカウト、ビクトリージムに斡旋するとともに、自分も同ジムのトレーナーになった。
 池田さんが渡久地の酒癖にいかに手を焼いたか、限られた字数の中で書き綴ることはできない。渡久地氏のプライベートを暴いてしまったが、酒乱である私も、おいおい醜態を暴露するので、ツーペーで勘弁してもらいたい。
 圧倒的強さで日本チャンピオンになった渡久地は91年3月に、これまた破竹の勢いで日本のリングに旋風を巻き起こす勇利アルバチャコフ(協栄)の挑戦を受けることに。その前年暮れ、渡久地はジムから消えて“敵前逃亡”のそしりを受けた。
 真相は渡久地さんの項で明かしたい。逃亡していた渡久地が、埼玉県鴻巣市のだだっ広い倉庫で、1人黙々とトレーニングしている姿を私がカメラで捉え、特種で報じる幸運に恵まれた。
 犬も歩けば棒に当たる−。いろはカルタの教えは、取材記者にも当てはまる。ただし、渡久地発見のニュースは、そんな原則から生まれたものではない。池田氏のリークがすべてだった。
 池田さんはビクトリージムのマネジャーのころから、なんとなく求心力があり、一部の会長さんと私で「池田会」を結成、ジムの近くにある河川敷ゴルフ場で、不定期ながらコンペをしていた。
 
 渡久地がビクトリージムから脱走して、鴻巣で練習していた事実に、池田さんは絡んでいたと思う。倉庫の向かいにプレハブのジムを建て、独立して埼玉池田ジムを設立したのは、渡久地発見から間もなくのことだった。(写真上:試合控え室の渡久地と右は故・池田伸夫会長)
 ダイレクトに渡久地と契約した池田さんは次々と、ハードな相手とマッチメーク、渡久地には気の毒だった。渡久地の集客力は脱走からの復帰後も衰えず、池田さんはいい興行をしたと思う。
 渡久地は無冠だったが、池田さんは日本チャンピオン以上のファイトマネーを払っていた。それを自慢するところが、なんとなく子供っぽくて、自慢顔が頭から離れない。
 テレビ局が渡久地の放映権を欲しがってもゴールデンタイムを条件に、一歩も引かなかった。強情な男は、持病の糖尿病と妥協しないで6年前の12月、60歳台の若い身そらでこの世を去った。「芦沢さん、やくざにはいいやくざもなければ、悪いやくざもない。みんな悪いんだ」。池田さんのありがたい言葉に反論するわけではないが、あえて問う。やくざ以外の人間はすべて善良なのかと。

 

 

  

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