N O S T A L G I A vol.5


今は亡きボクシング評論の大御所たち

 

 

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 テレビ・ボクシングがもっとも賑わいをみせた昭和三十年代後半、放送席の大物解説者といえば、ここにご紹介する人たちだった。2枚の写真のうち、上は日本テレビ「ダイナミック・グローブ」の平沢雪村(せっそん・右)、TBS「ビッグファイト」の下田辰雄の両氏。ツーショットで写っているのは何かの対談のスナップであろうか。下は昭和38年、TBS本社をエデル・ジョフレ一行が訪れた際に同席した「東洋チャンピオンスカウト」の名解説者・郡司信夫氏(中央)。ご三方はいずれもボクシング評論の草分け的存在である。
 平沢雪村氏は、ユニークな専門誌「ボクシング」を80歳で引退するまで40年以上も発行し続けた。世界戦で日本人選手が判定負けするたびに「○○は判定を盗まれた !」と過激なタイトルで審判批判リポートを載せるのには閉口したが、それでも忌憚なく、何でも断定調でものを言う語り口は聞いていて小気味よく、これに影響を受けたファンも当時随分といたはずである。
 一方郡司氏は、雪村氏とは好対照で、朴とつな栃木弁丸出しの解説者だった。こちらは「ボクシング・ガゼット」誌を戦前から発行していた。TBSの名物プロデューサーだった森忠大さんによれば、解説に起用されて間もない頃は「なぜあんななまりのある解説者を使うんだ」との抗議もあったらしい。だがやがてそんな批判はかき消え、視聴者の間でこの独特の語りがすっかり受け入

 

 

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れられるようになった。温厚な郡司さんは、技術面はコンビを組んだ白井義男氏に任せ、人情味あふれる解説ぶりでボクシングの素晴らしさを語ってくれたものである。
 普段の郡司さんは、正義感からボクシング界のシステム上の批判はするが、個人的には人の悪口をほとんどといっていいほど言わない人だった。ただし例外があって、有名な映画会社の経営者だった某氏の話題になると「あいつはひどいヤツだったよ」と、この人には珍しく厳しい口調で批判していた。実は戦後間もなく郡司さんらが興した日本拳闘株式会社を、某氏の会社に合同というかたちで乗っ取られたというのである。この日本拳闘という会社、資本金が当時の金で1億円以上にもなり、ボクシング専用会場を所有し、とんでもなく大がかりな会社だったらしい。生き馬の目を抜くような実業界のやり手経営者には、人のいい郡司さんらの会社を吸収することなど、赤子の手をひねるように簡単だったろうことは想像がつく。
 新人時代の私は、銀座松坂屋裏にあった郡司さんの事務所に毎日のように押しかけ、重要な資料を書き写させてもらっていた。これがまた実に楽しい仕事だったのだ。郡司さんは、来る者拒まず、若い記者に惜しみなく与えてなんら見返りを期待しない人だった。
 マスコミの間では謹厳実直な郡司さんは誰からも尊敬されたが、酒・タバコ・ギャンブルをこよなく愛した無頼な記者たちには、同好の士として付き合いのいい雪村氏に特に親近感を抱いていたようである。

 一方、読売新聞で健筆を揮った下田辰雄氏は、英語に堪能なことから特に本場イギリス、アメリカのボクシングに詳しかった。ボクシング黎明期からこのスポーツに関わり、毒舌家にして少し気難し屋のところもあって敬遠する記者も少なくなかったが、筆者はこの人の話ーーボクシングの歴史やルール等ーーを聞くことが好きだった。おかげで、下田氏からは目に見えるもの、見えないものさまざまな遺産を頂戴している。亡くなった後に梶間正夫氏の取り計らいもあって、貴重な資料を預かり、これは将来ボクシング博物館ができたら真っ先に寄贈したいと考えている。
 この人からは教えられることが多かったが、中でも「現役のボクサーとは深く付き合わない方がいい。彼らは本当に人間的にいいヤツばかりで、付き合えばどうしても批評の筆が鈍ることがあるからな」というアドバイスには、なるほどと感じいったものだった。取材記者としてはジム関係者や選手に接近しないことには面白い話も聞けない、しかし、純粋に批評家としての立ち場を貫こうとすれば、厳しく自らを律し、選手とも距離を保って付き合う必要があるだろう。これはなかなか難しいことである。
 ここでは写真をご紹介する余裕がなかったが、ほかにもフジテレビの石川輝氏、NHK(不定期だったが)の中村金雄氏らもテレビ・ボクシング黄金期を盛り上げた名物解説者だった。我々の大先輩に当たるこれらの評論家、解説者たちは、いずれもパイオニアとしての苦労もあったろうが、それでも彼らをとても羨ましく思うことがある。当時東京の民放は各局競うように毎週ゴールデン・タイムでボクシングを放映していた。それも生放送で、しかもノンタイトル戦でもほとんどが全国ネットに近い放送形態だったのだ。深夜録画で関東地方のみという現在のテレビ番組に慣れたファンには信じられないことだろう。そういう時代に活躍した評論家たちは、いずれもボクシングだけでメシを食っていた。今は厳密に「ボクシング評論家」を生業として生きていくのは困難な時代になった。ボクシング専門誌として評論家に依存しなくてはならない我々も、これは辛いのである。
 もっとも、それを嘆いたらボクサーとて同様で、今日、ファイトマネーだけで生活の糧を得ている職業選手は昔とくらべて遙かに少ないはずである。   (前田衷)

 

● 今日は何の日? ●

June

28/土  "世紀のバイト"起きる−−ラスベガスの世界ヘビー級タイトル戦で、マイク・タイソ
     ンが、王者イベンダー・ホリフィールドの耳を噛みちぎり、3回失格負け(1997年)

29/日 後の世界・バンタム級名王者渡辺二郎が後楽園ホールでベルリノ・オリベッティに2回
     KO勝ち(1981年)

30/月 マイク・タイソン、ニューヨーク市ブルックリン区に誕生(1966年) 

July

1/火 畑山隆則、フランスの伏兵ジュリアン・ロルシに判定負けし、WBA世界ライト級王座失う
    (2001年) 

2/水 ヘビー級名王者ジャック・デンプシー、フランスの誇りジョルジュ・カルパンティエの挑戦
    を4回KOで撃退(1921年)。五輪金メダリストの桜井孝雄が世界バンタム級王座に挑戦
    、ライオネル・ローズに善戦も惜しくも判定負け(1968年)

3/木 マービン・ハート対ジャック・ルートの世界ヘビー級タイトル戦で、ジェームズ・ジェフリー
    ズがレフェリーを務める。元世界王者が世界戦のレフェリーに起用された第1号となる
    (1905年)


4/金 "マナッサの巨人殺し"伝説スタート。ジャック・デンプシー、ジェス・ウィラードを7度倒し
    世界ヘビー級チャンピオンとなる(1919年)。亀田昭雄が米国シンシナティでWBA世界
    J・ウェルター級王座に挑戦、ダウン奪うも逆転の6回TKO負け(1982年)

 

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