リングサイド・ビュー

前田 衷

「メデル奨学金」
元ボクサーの慎ましい引退生活


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 「ジョー・メデル」の名が久々にニュースになった。以下は、昨日の「エスト」紙の記事を札幌在住の安達寿夫さんが翻訳して送ってくれたものである。ヨネクラジムの元選手だった安達さんは長くメキシコに住み、その間メデルは彼の師匠だった。
「グスタボ・マデロ区役所は、元メキシコ・バンタム級チャンピオンで"無冠の帝王"と呼ばれた故・ジョー・メデル氏に敬意を表し、区内に住む優秀なスポーツ選手に与えられる奨学金に同氏の名前をつけることにした。今日8日午前10時から区内のエルマノ・ガレアナ・スポーツ会館で100人が"メデル奨学金"を受ける。メデルはファイトマネーでグスタボ・マデロ区内のサンペドロ・エルチコに家を購入し、(亡くなるまで)30年にわたってここに住み続けた。(中略)あのファイティング原田をノックアウトしたこともあり、日本のファンの心を奪った−−」
 メデルはメキシコの「悲運の名ボクサー」である。エデル・ジョフレとファイティング原田に阻まれ世界チャンピオンこそ逸したものの、全盛時長らく世界バンタム級のトップ・コンテンダーの地位にあった。通算112度戦い、特に日本選手とは縁が深く、12人と戦った。世界チャンピオンにはなれなかったから今のレコードブックに名前は見当たらないが、ファンの(特に日本のファンの)記憶に残る名ボクサーだった。外国人ボクサーでメデルほど日本のファンに愛された外国人ボクサーはいなかったろう。エスト紙が「日本のファンの心を奪った」と記しているのは誇張ではない。鮮やかなカウンター・ブローで原田や関光徳をKOして日本のファンをすっかり魅了した。私も魅了されたひとりである。「ロープ際の魔術師」なるニックネームは日本のメディアが名づけ親だが、本人もこれを気に入っていた。日本のファンから愛されたのは、その芸術的なボクシングだけでなく、人間味あふれる人柄も大きな要素だった。現役時代から、勝っては泣き負けては泣く感激屋は、対戦相手からも尊敬を集めるボクサーだった。

 10年前、先述の安達さんと一緒にメデルの自宅を訪問した時のことが忘れられない。宿舎まで迎えにきてくれたメデル氏は、運転してきた車に私を乗せると「こんなボロい車で悪いね」と少し恥かしそうに言った。それは購入した頃はさぞかし高価だったろう年代ものの大型のアメ車だった。70年代か80年代に製作され、購入してから少なくともメデル氏の引退生活と同年数ぐらいは経過していたろう。ほこりっぽく塗装も所々はげ落ち、よく整備されているようにも見えなかった。だが、こちらは「ロープ際の魔術師」に運転してもらっているだけで、すっかり恐縮していたのである。
 招かれた自宅は、古いながらも清潔だった。広間の壁には、いかにも敬虔なカトリックのメデル氏らしい、キリストやマリオ像などの宗教画とともに、若々しい現役時代の肖像画が架けられていた。なるほど「ファイトマネーで購入し、30年以上も住み続けた」という家は、往年の名ボクサー、メデルの家であり、それ以外の何ものでもなかった。メキシコ滞在中に、昼食を市内のファストフード店でご馳走になったことがある。有難かった。メデル氏の質素な生活ぶりを拝見した後だから、これも元ボクサーの慎ましくもまっとうな生き方だなと、感動すら覚えたものだった。

 ボクシングで成功したチャンピオンたちにとって、引退後の生活はなかなか大変なことだと思う。引退時、多くは二十代、あるいは三十代の前半だろうから、"余生"はあまりにも長い。「元チャンピオン」の看板を傷つけたくないという意識もあるだろう。事業を始めるケースが多いが、リングの中ではキングだった彼らも、実業家としてキングであるのは稀有なことである。「ボクシングの苦しみを思えば、なんでもできる」と信じてチャレンジしても、事業家のプロたちでさえ成功しにくい厳しい世界で生き抜くのは容易ではない。靴磨きの少年から身を起こし、自慢の拳で成功をおさめたチャンピオンが、引退して何年か後には再び靴磨きに戻っていた−−というのはボー・ジャックの失敗談だが、似たような例は他にいくらでもある。幸い日本ではまだ聞かないが、落魄して新聞の社会面をにぎわす元ボクサーの悲惨なドラマは残念ながら珍しくもないのである。
MEDEL & WIFE MARIA.JPG - 29,783BYTES その点、ジョー・メデル氏は、自分に何が出来て、何が出来ないかをよく理解していた。分相応に生きるすべを知っていたのだろう。引退後の仕事は、ボクサーを指導することだった。朝はテピート地区の青少年センターで、ボクシング部コーチとして教え、定年まで勤めた。午後はテピートのジムでプロ選手を教えた。名選手必ずしも名指導者にあらずのたとえはこの人にも当てはまったか、不幸にもチャンピオンを育てることはできなかったが、慎ましい暮らしながらも、マリア夫人と5人の子供を養うことはできた。
 数年前、WBCはメデル氏のボクシング界に対する多大な功績を讃えて記念のチャンピオンベルトを贈った。その後しばらくして、人づてにメデル氏がそのベルトを売りたがっているという話を聞かされた。これを聞いてがっかりする人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。改めて、何ごとにも無欲なメデル氏らしい話だと感心したのである。
 メデル氏は時にファンから招待を受け、正装して出かけて行くのが楽しみだったという。往年のファンに敬意を払われるのは、いつになってもいい気分なのだろう。親日家としても知られたが、それは自分に敬意を抱くファンが日本に多いことを知っていたからだ。「日本に自分の教え子のアマ選手たちを連れて試合をさせたい」とメデル氏から依頼され、来日の手伝いをしたのはちょうど10年前のことだった。歓迎パーティでは原田政彦さんらかつて対戦した日本の対戦者たちとの再会に涙を浮かべて感激していた。「日本にこれてよかった。有難う」と、これも涙を浮かべて喜んでくれた。
 メデル氏の訃報が届いたのは、それから7年後(2001年)のことだった。

 

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