夢かうつつか、酔いどれ記者が行く  芦沢 清一
『 酔いどれ交遊録 』


 野口 恭さん

 酔いどれも一目置く酒豪だった……


 昭和14年生まれの兎(ウサギ)年仲間に、元日本フライ級チャンピオンの野口恭さんがいる。父の進氏(故人)はライオン野口のリングネームで活躍した豪傑ボクサーで、日本ウェルター級チャンピオンになっている。国内のボクシング史に父子日本チャンピオンは、この1例しかない。
 進氏が興した野口ジムを恭さんが継いで2代目会長となり、さらに恭さんの実子・勝さんが引き継いで3代目会長になっている。恭さんは持病があるため、生前に勝さんに会長の座を譲ったもの。名誉会長として、毎日、ジムには立っているようだ。
 恭さんは酒豪だった。これは進氏の血を受け継いだものだ。私がボクシング担当になった時、進氏は他界していたので、直に会ったことはないが、酒にまつわる面白い話を、デイリーの先輩記者、朝熊伸一郎さんから聞いたことがある。
 恭さんは昭和37(1962)年に世界挑戦しているから、その前後のことだろう。朝熊さんが野口ジムに取材に行った。「面白いネタをやるけど、これを空けてからだ」と進氏は1升ビンを目の前にどかんと置いた。早くネタが欲しいため、ハイピッチで飲んだ朝熊さん。不覚にもネタをもらう前に、前後不覚に陥った。
 会社ではデスクと紙面製作担当者が、広いスペースを空けて、朝熊さんの原稿を待っていたが、絞め切り時間を過ぎても音沙汰無し。空いたスペースをどうしたかといえば、前日の記事をそのまま再掲載したのだった。今だったら何かかにかで埋め合わせができるが、当時は余分な原稿がなかったらしい。進氏の酒の強要が生んだ、とんだエピソードである。
 2代目会長になった恭さんは、日本及び東洋ウェルター級チャンピオンになった龍反町を育てた。1970年代、反町と恭さんは全盛期を謳歌していた。酒豪の恭さんはスポーツ紙のボクシング担当記者を引き連れて、銀座のクラブ街をはしごしたことがある。
 私としては赤提灯でじっくり腰を据えて飲むのが性に合っているのだが、恭さんの流儀は反対だ。高級クラブに腰を降ろして、20分かそこらで立って次の店に行く。蝶々が花から花へと飛び回るように、お金をばら撒いて歩くのだった。
 当時、反町がドル箱だったのは確かだが、これほどの栄華を彼がもたらすのは、不可能だった。同時期、恭さんの実兄・修氏がキックボクシングの人気スター沢村忠と歌手の五木ひろしを抱えて、天下を取っていたのである。恭さんの豪遊の資金源は、修氏であったとしか思えない。
 酒が友達だった恭さんが飲めなくなったのは、10数年前のことだ。脳腫瘍の手術を受け、命は助かったが、”友達”との絶好を余儀なくされたのである。のん兵衛なら、そのつらさがよく分る。でも選手づくりという生き甲斐は残った。
  鈴木誠はいい孝行をした。これに続く選手が、早く野口ジムに出ることを願わずにいられない。

 

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